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マニフェスト Q&A?
- マニフェストって何ですか?
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我々が通常言うマニフェストの語源から説明すると、そもそもマニフェストという言葉はイタリア語です。有名なところでは、マルクスの『共産党宣言』や産業廃棄物の配送伝票があります。「マニフェスト」という言葉は実はそういうところからきています。
今までの選挙公約とはどちらかというと有権者は政治家に白紙一任でみんな信用していませんでした。それは期限とか財源とか何もつかずに「耳障りのいいこと」だけをスローガンに書いていたからです。糸の切れた凧みたいな公約ですから、当然ばらまき型の無制限にあれもしますこれもします、公共事業もやります教育もやりますという内容になります。その結果、放漫な運営がされ、700兆円を超える借金ができたのです。
財政的にも息詰まっているし、この世の中の成り立ちをどうするかと転換期には、今までのように、「あれもこれもします」という政策ではうまくいかないのは当然です。あれもこれもしようと思えば、700兆円が1000兆円、2000兆円になるだけです。現在の財政状況では、これまでのような投資的な運営ができなくなることは明らかです。今までは歳入のことは考えずに歳出だけ約束してきましたが、マニフェストは数値目標、期限、財源、工程表などをきちんと約束するものです。いわゆる体系だった政策で約束をするということになります。例えば、「学校を建てます」と言ったときには、「この道路はあきらめて学校建てます」とか、「こういう予算の枠組み変更をします」など、きちんと体系だてる必要があります。
今までの公約は「口約束」でしかありませんでした。つまり、事後検証できない口約ですから、公約の担保がないのです。だから、数字や金額を文字できちんと書いて、きちんと約束すると、選挙が終わって1年経つと、「あなたの約束したことは、これとこれとこれでしたね」という具合に検証が可能になります。また、2年目はこうでということになり、4年経つと、「あなたは4年間知事でしたが、約束を守ってないじゃないですか」、だから次は落選ですねということになるのです。
事後検証可能な公約、「政権公約」のことをマニフェストといいます。事後検証不可能なばらまき型のことを公約といいます。これまでは、あまりにも公約や約束が軽すぎたので、「どうせ政治家は公約を破るものだ」、「政治家は都合のいいときだけ」というように思ってきたということは、政治を信用していない、政治家が信用されていないということだったのだと思います。そこで、「まだ公務員のほうがましではないのか」ということで公務員が信用されていました。公務員は信用されていたものだから、立法府の仕事は政治家がやらなければいけないのに、ほとんど立法は行政がやってきました。これはやはり、原則に戻さなければいけません。なぜかと言えば、民主主義だからです。民が主役と書いて民主主義です。受験勉強をして試験を通った官が決めていくのだったら、選挙なんて関係ありません。民主主義ではないのです。官僚がすべて決めていく社会のことを社会主義国家といいます。このことを本当に今一度考え直しませんか。民が選んだ人たちが力を持つということにしなければいけません。民が選ぶ時に、今まで地縁とか血縁とか親戚だからとか利権で選ばれていたのを体系だった政策を契約することによって選んでいくという習慣がないから、その習慣づけをしなければいけません。だから、私とA立候補者は親戚だから選んだというのではなく、約束したマニフェストを見てこれが正しいから選ぶという、政策によって選ばれる選挙にしていかないと政治とか政治家が信頼されません。これが信頼されたら、今度は役人の方がきちんと政治を見て、この人なら付いていこうということになった時に、民が主役で民主主義社会になるのではないでしょうか。
マニフェストを掲げて、民主主義のそもそも論をもう一回見直す必要があるでしょう。マニフェストを出したら、「そうだったのか」、「やっぱり今までの選挙の公約なんて嘘だったのですね」、「あなたまかせの白紙一任だったですね」ということになります。みんな知っていましたが、直そうという気がありませんでした。裏を返せば政治家はそんなものだと馬鹿にされていたということです。
「マニフェストをやりませんか」と国会議員に言ったら、「公職選挙法の規定では、配れませんよ」と言われました。現在の公職選挙法は、大正時代にできた選挙法をもとにして作った「べからず集」ですから、その中では、「あれもしてはいけない」、「これもしてはいけない」ということばかりですから、配ることは難しいのです。国会議員は、配れないことを知っていて直そうという意欲がなかったのです。だから、「公職選挙法直そうよ」と言ったら、一部ではありますが、公職選挙法の一部改正がアッと言う間に実現しました。良いことだと気がついたら、みんな動くのです。
統一地方選挙などで、知事候補の皆さんにお願いしたところ、多くの方から「マニフェストは書けないよ」と言われました。「なぜ書けないの」と聞くと、「財源とか期限を決められたら、国に財源を決められている以上、そんな約束はできない」と言われました。国の財源で三位一体の改革で補助金減ったら困るのです。だから、書けないということは、正しい意見でもあるのです。「では、あなた方は自己決定・自己責任とれないのですね」と聞きましたら、「そうですよ」と言われました。親分の知事や市長がマニフェスト書けないと言うことは、その下にいる320万人の地方公務員に達成感なんてあるはずがないのです。
マニフェスト書いて当選した知事に集まっていただき、「あなたがたは、マニフェストを書けないと言われましたね。では、書けるようにするための運動をしませんか」と言いました。これまでは、補助金に縛られてきました。例えば、「この補助金はこういう道路に使いなさい」、「車道が5メートルあったら歩道は3メートルどうしても付けなさい」という具合に、道路構造令というルールがあります。車がほとんど通らないところに、歩道付きの道路をつくったら、近所の奥さんに「立派な歩道をつくっていただいたけど、あそこを通るのはサルだけです」って言われました。東京には3メートルの道路が必要でも地方では必ずしもそうではありません。今までは国から一律で決められてきましたが、その3メートルの道路を県や町村が国に対して説明するのではなく、国や国土交通省に対して、その補助金は間違っているということにならなければなりません。地方分権するために選挙で選ばれたトップが、自分の自治体のことについては自分たちで決定し、きちんと責任をとれる体制にしなければならないのです。
市役所行ったら県へ、県へ言ったら国へ、国へ行ったら市町村へと、みんな逃げられる体制になっています。そんなことでは駄目です。権限と責任を明確にすることが地方分権です。そのことは、みんな分かっていたけど、マニフェストを提唱したことで、具体の動きになって、小泉さんが、「自分達でまとめることはできないから、知事会でまとめて下さい」と言って、放り投げたものが三位一体の大きな問題でした。丸投げされたものを知事会も歯を食いしばってまとめて返しました。本当は丸投げしたのだから投げ返されたら丸受けしなければいけません。ところが各省庁みると地方が勝手なことをしてけしからんと言い、オール反対になりました。義務教育費でもそうですが、地方へ渡すとでたらめをするから国で持ってないといかんというのがその理由です。そこまで言われて、首長が怒らなかったら、その人は首長の資格がないと思います。あなた方は馬鹿だから国が補助金の管理をしなければいけないと言われているのですから。
知事会が立ち上がって、とうとうまとめて持っていったから、これで国が降参してしまいました。マニフェストを通じて、国から自立して、地域も責任と権限を持ってやっていこうということ、公職選挙法を直そうということ、公務員法を直そうということ、あるいは財源を直そうということなどに気がついたのです。「マニフェスト」という象徴的な言葉で、自分たちの町は自分たち民が本当に主力になってやっていこうという運動をおこしていこうと思います。
- マニフェストは政党や政治家がつくるイメージがあるのですが、一般市民にとってどういう影響がありますか?
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マニフェストには2種類あって、その1つは政党が書くマニフェストのことで「パーティ・マニフェスト」と言います。これは、国政選挙において使われ、日本は議院内閣制で多数を取った与党が内閣を作るから政党のマニフェストがあるわけです。2つ目は「ローカル・マニフェスト」と言います。地方自治体の首長が書くものを「ローカル・マニフェスト」と言います。
戦後60年経ち、この間、人口も経済も情報も何もかもいいところ全てが東京へきて、中央集権によって、中央が栄えて、田舎が滅び去っていくという姿になってきました。それはすべて国が権限を一手に握って、沖縄から北海道までナショナルミニマムで全国一斉にやってきたからです。例えば、農業政策の場合でも全然条件が違うのに1つの枠の中で全てを当てはめてきたので、現在では非効率的であったり、矛盾が生じたり、地域の実情に合わなくなってきました。今のトレンドは、「地域でできることは地域で、あなたでできることはあなたで」という補完性の原理です。つまり自分でできることは自分でやり、町でできることは町でやり、町でできない広域的なことを県でやり、県でできない外交や通貨等は国でやっていこうということです。こうした原点に立てば、これまでの中央で全部決められて地方が滅び去っていったということは、地域のみなさん方にとってとても大きな問題なのです。
例えば補助金について例を挙げれば、道路に3メートルの歩道などいらないのですが、国からルールで押しつけられ、そのルールを地元の方に説明するのが県や市役所の仕事だったのです。このようにして、必要のない公共事業がたくさんでき、公共事業がすべて悪者になったのです。
- 財源とか数値をきちんと示したものを破ってしまった場合はどうなるのですか?
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例えば、「100億円を学校建設に充てようと思ったが、大嵐が来て災害に充てなければいけない」、あるいは、「国からの補助金が変わった等、様々な不測の事態があるから、こういう理由でできませんでした」と言って、きちんと説明責任を果たすことが重要です。有権者に正直に伝えて、有権者が、「それはそうだね」と言えることはとてもいいことです。 今までは、有権者も政治家や役人に白紙一任で任せてあったのですから、できようができまいが、あまり関係ありませんでした。政治家や役人は、できる範囲の約束をしていたにすぎないのです。
本来は、主権者である市民が納得するサービスをどう提供したかであるべきなのに、判断する基準がありませんでした。今までの公約は白紙一任ですから、政治家に好き勝手やられても文句言えませんでした。ところが、マニフェストになると、「今回あなたはこういう約束したじゃないですか、なぜできないのですか」と言われますので、「私は学校建設にこれだけのことを約束していましたが、台風がきて、ここに100億円必要でしたので、この学校は1年間待っていただきます」というように、きちんと説明できなければなりません。自分たちの都合だけでサボッタとか、選挙のために福祉にいっぱい使ってしまったからということではいけません。きちんと説明責任を果たすためにも、選挙の前に数値の約束をするのです。約束をしたからこそがんばれるのであって、守られていないことがあまりにも多かったら、次の選挙では落選です。
約束をして出す数値というのは市役所だけではできません。なぜなら、道路を作るときには、用地買収に応じてくれなければできません。だから市民のみなさんのご協力がいります。したがって、マニフェストは市民のみなさんの責任も問うわけです。それを前提に我々はやりますということになるのです。市民の皆さんの協力を得られないことは、実は役所の努力が足りなかったのです。だから役所の職員は真剣に市民のみなさんを説得したり、納得させる努力が今まで以上に必要になってきます。今までの約束はインプット、つまり資源の投入量ですから、できない場合は、「あなた方が悪いのよ」って言ってきましたが、マニフェストは、市民に対する約束ですから、納得する市民をつくるためには、懸命に努力してやらなければなりません。
ここでインプット、アウトプット、アウトカムについて簡単に説明しますと、インプットというのは資源投入量で、「今年はあの道路に1億円使います」ということになります。「1億円投入して道路を1キロつくります」というのがアウトプットです。アウトカムというのは、その成果指標というものです。「1億円投入することによって1キロ道路ができて、通勤時間が朝1時間かかっていたのが30分で行けます」ということがこれにあたります。その30分で行けますというのが成果、アウトカムです。有権者は成果を望んでいるのです。1億円使おうが、1キロ道路を直してもらおうが関係ないのです。1キロ直したところで、あと10メートル橋が架かってなかったら通れないわけです。だから、みなさんの期待票は何かというとうことを問うべきであって、30分短縮されて、通勤が楽になったかどうか、便利になったかどうかが問われるのです。
- 今までは、成果が検証されていなかったということですか?
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もちろんそうです。これまでは、投入することに集中していました。それが本当に住民福祉の向上につながったかといえば、つながっているとはいえないものもたくさんありました。また、1億円使って道路を1キロ作ることさえ約束していませんでした。自分で予算を組んで、情報を非公開にしてきたからです。だから、情報公開を進め、それを成果で見ていくと、住民と役所とのコラボレーションでやらなければいけないことになります。これまでは、一方的に資源を入れて作ることだけでしたが、マニフェストによって、住民のみなさんも責任果たしてくださいという流れになり、統治の仕方が変わってきたのです。
- マニフェストによって公務員はどの様に変わっていくのですか?
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民主主義というのは民が選んだものをどうやって忠実にやるかが重要です。ところが、官僚が恣意的にやれば、それは暴力的な行政です。マニフェストをやると、政治家がもっと問題解決しなければいけませんが、一気に行かないところもあります。しかし、政治家が民から信頼され始めたら、官僚はその政治家についていった方がいいと思います。
例えば、増田知事が岩手県で200億円公共事業をカットすることを県民に約束しました。今までは、甘い甘い公約しかなかったので、200億円カットするということはありえませんでした。苦い薬が入ったのです。増田知事は、苦い薬の入ったマニフェストを掲げ、9割の得票率で当選しました。すると、当選後の初登庁のときに、県庁の土木部長から、「200億円カットをするためには、3つの方法がありまして、どれでもできます」と言いました。すなわち、政治家を信用し、民と約束したら役人は変わるということです。もし、その約束がないとしたら、「土木部長にやって下さい」というと、「いや農林部の方が」と言い、農林部長にお願いすると、「教育委員会はどうなりますか」と言い、教育長に言うと、「いや福祉の方はどうでしょうか」というように、たらい回しになります。これが役所仕事です。
ところが、トップが約束したらその日のうちに200億円がカットする案がでてきました。これは政治と官僚の関係が良循環に作用したということでしょう。そのようになってこないといけません。
行政府が司法も兼ねるぐらい強くなりすぎたことが問題です。そのことは官僚にとってものすごく不幸なことです。何をやっても自由ということで、公務員の不祥事が多発しているのです。今までは情報非公開だったからそうでした。
「官僚は皆グルですよ」ですとか、「官僚主義に陥るな」とよく言われます。これは、官僚が馬鹿にされていることをよく表しているのではないでしょうか。官僚が尊敬される存在になるのであれば、政治家もがんばり、お互い尊敬されるようになって、みんなで頑張った方がよいでしょう。
- まだまだ市民間にマニフェストは浸透していないように思われますが、今後、マニフェストをどうやって普及していくのですか?
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マニフェストは、「新しい価値を生み出していこう」ですとか、「政策で決めようよ」という運動です。わかっていながらやらないということになると、旧態依然のままになります。「違うでしょう」、「やりかたを変えましょうよ」という意見が出てくる手段としてマニフェストがあります。2003年の総選挙で各党が提示をし、年末には流行語大賞をもらいました。そこまで広がったので、次は、質の充実ですとか、広がりや深さをみんなで高めていくのです。マニフェストによって、「今までの選挙はこういうものでよかったですか」と聞く一つの道具としてマニフェストは存分に使えると思います。
- 実際の選挙でマニフェストはどこで見ることが出来るのですか?
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ホームページで見ることが出来れば一番よいですね。選挙告示(公示)までは、政−治活動としてはやれますが、公職選挙法の関係で、告示(公示)後は、変化させることはできません。
政党の場合は、2003年に公職選挙法の一部改正がありました。だから、少し配れるようになりましたが、首長の場合は、「パーティー・マニフェスト」とは違うので、個人で配れないのです。
候補者と有権者をフレンドリーな関係にするのが我々の運動ですから、公職選挙法を変えていくことが必要です。今までは、法律があるからといって、それを所用のものとして、法律守ることを仕事と思ってきました。ですが、「その法律が悪かったら、法律を変えよう」という運動を起こさなければならないのです。もっと有権者と候補者がフレンドリーな関係になれるのに、法律がそれを阻害しているなら、その法律を変えようよという運動が始まったのです。今までは、ITが無かったですが、IT化がどんどん進めば、ITを存分に活用できる法律に変えようよという運動がマニフェストから始まったのです。
もっと極端に言えば、東京のような都市部で投票所ってどこにあるかわかりますか。自分の投票所さえわからない人も多いのではないでしょうか。「選挙には行っているけれど、調べて始めて行けるわけだよね」ということでしたら、ネットで投票できたらいいじゃないですかという意見も出てくるのです。
投票率をあげるために、日曜日だけでなく、3日連続投票日というような案もありますが、そんなことばかりではないでしょう。もっと地方分権することが必要です。皆さんが税金で負担したことに対して、公共が受益として何をするのかということを分からずに、選挙に関心があるわけがありません。情報公開して、皆さんの一番近いところへ政治がいったら、もっと政治に関心を持つでしょう。
政治献金の問題も日本だから起きるのです。イギリスでは国会議員に出ようとしたら、候補者1人の持ち出し金額の上限は、約130万円までと決まっています。それ以上使ったらいけないのです。そういう制度ですから、ちょっと会社休んで選挙に出ますとなっても、130万円だから、でられる可能性があるのです。そして、ちょっと会社休んで出ましたが、残念ながら負けてしまいました。では、職場に戻ろうということもできるのです。そして、政治家と官僚は接見禁止です。日本では、政治家が口利きして、役所を脅したりして、役所がそれに応えているという問題がたくさんあるでしょう。ですから、イギリスでは、会うことを禁止するわけです。「地元のあそこの道路に予算を付けろ」というようなことが国会議員の仕事だとみんな思っているから、政治家が信頼されないのです。消費税ですとか、国の法律をきっちり決めるというような、国のグランドデザインを考えることが国会議員の仕事であって、地域の道路のような問題は、知事や市長に任せればいいのです。仕事のセグメンテーションといいますか、国の仕事は、通貨、安全保障、外交ですというようにきちんと決めたら、そういう利権が起こらなくなるのです。
「そういう制度をどんどん変えていこうという」という運動でもあるわけです。その象徴的な一つの言葉として、選挙の前のコントラクトということがマニフェスト運動です。主権在民という、中学のときに習った一番の原則に戻って、もう一回みんながこんなもんだと思ってきた民主主義を根底から変えようよという運動の1つの象徴的な言葉としてマニフェストをとらえればよいのではないでしょうか。