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2014年度(9期) 人材マネジメント部会 第1回研究会フォトレポート

第1回研究会 フォトレポート

■概要

73自治体、約220名の職員が参加し、2日間にわたって「組織はどうすれば変えられるか」をテーマにダイアログ(対話)を行った。約2時間の議論の成果としてグループごとで発表がなされ、幹事がそれぞれコメント・総括した。第2回に向けては、出馬部会長より「所属自治体組織の現状を把握し、整理する」といった宿題が出された。

■第1回研究会の狙い

  1. 部会の狙いを知るⅠ
  2. ダイアログに慣れる

 

■1日目:会場の様子
1日目会場1

1日目の会場は約220名が参加

■出馬部会長から当部会の概要と狙いについて
出馬部会長

出馬部会長から運営方針の発表

幹事団紹介

幹事団7名の紹介、しゃべっているのは白井幹事

■北川所長の講話
北川正恭早大大学院教授

北川正恭早大大学院教授

参加者は熱心に耳を傾けていた

参加者は熱心に耳を傾けていた

■1日目のダイアログ
1日目のダイアログの様子

1日目のダイアログの様子

■2日目:会場の様子
教室は人で埋め尽くされている

教室は人で埋め尽くされている

■2日目:基調講話「組織変革とは」(鬼澤部会長代行)
鬼澤部会長代行の基調講話1

鬼澤部会長代行の基調講話

参加者間の議論も活発

参加者間の議論も活発

■ダイアログの様子1
ダイアログのテーマは「組織はどうすれば変えられるのか?」

テーマは「組織はどうすれば変えられるのか?」

ダイアログではポストイットで議論を「見える化」

ポストイットで議論を「見える化」

■ダイアログの様子2
発表に向けては見せ方、伝え方も重要

発表に向けては見せ方、伝え方も重要

多人数のため4つの部屋に分かれて行われた

多人数のため4つの部屋に分かれて行われた

■ダイアログの成果発表1
ふせんだらけの紙は2時間みっちり議論した証

ふせんだらけの紙は2時間みっちり議論した証


幹事の佐野氏から本日のまとめ

2日間の研究会について総括する佐野幹事

「自治体を変える火種になる」と発表

「自治体を変える火種になる」と発表


発表に対してはそれぞれ幹事がコメント

発表に対してはそれぞれ幹事がコメント


司会をつとめた佐藤幹事

司会をつとめた佐藤幹事

2014年度第1回研究会の次第について

2014年度(9期) 早稲田大学マニフェスト研究所人材マネジメント部会

第1回研究会次第

  1. ■第1回研究会の狙い

(ア) 部会の狙いを知るⅠ
(イ) ダイアログに慣れる

  1. ■出席幹事(敬称略)

出馬幹也、鬼澤慎人、白井 誠、佐野哲郎、阿部勝弘、佐藤 淳、緒方雅一

  1. ■日程、会場、プログラム

(ア) 4月17日 AP東京八重洲通り 教室KLM

13:00~15:00
 オリエンテーション
 部会が目指すこと(出馬)
 幹事団・自己紹介
 基調講話(北川所長)

15:00~17:00
 ダイアログ① 進め方解説、「今自分が感じている事」
 ★並行開催:アドバンスコース講義①
 全体共有と解説

※17日の研修会終了後、懇親会を開催いたします。お一人4000円程度の予定です。

(イ) 4月18日 コレド日本橋5F 早大大学院ファイナンス研究科 教室8・9・10・11

10:00~12:00
 基調講話「組織変革とは」(鬼澤)
 ダイアログ② 進め方解説、「組織はどうすれば変えられるか」
 ★ アドバンスコース講義②

≪昼食休憩≫

13:00~15:00
 ダイアログ②(続き)
 ★ アドバンスコース講義②(続き)
 全体共有と解説
 セッション総括と、次回に向けた活動についての説明
 ★ アドバンス・ダイアログ
 応援メッセージ(幹事団)

以上

■関連ファイル
第1回研究会次第 PDF

第2回に向けた宿題についての説明(出馬部会長)

2013年度 最終研修会が開催され、修了証書が授与されました

1月30日~31日、2013年度人材マネジメント部会 最終研修会が
東京都日本橋会議室にて開催され、今年度の部会が無事に修了いたしました。
ベーシックコースの皆様には修了証書が、
アドバイスコースの皆様にはアシスタントディレクターの称号が授与されました。
修了生の皆さんからは、北川正恭所長と幹事の皆様へお手紙が
サプライズで送られました。ありがとうございます!!
スタッフ一同、参加者の皆様の益々のご活躍を祈念しております。

『あれだけ言っておいたのにどうして?…からの脱却』

私が大手企業や自治体向けの管理職研修などの場で強調することがあります。それは『理解から納得までの距離は遠いですよ』ということです。

他人の理解を得ようとすると人は懸命に説明します。プレゼン資料を練り上げ、質疑応答への対応を入念に準備してプレゼンにも臨むことでしょう。確かに、わかりやすい資料と説明があれば、理解は得られるでしょうし、好評を博すことも可能だと思います。しかし、いかに好評を得たとしても、プレゼンとは他に理解を求めていくまでの場でしかありません。

「あなたの言いたいことは分った」という意味の理解を得るまでがプレゼンの狙うところです。そこからさらに”腹に落として”もらい、自らの意思で主体的に行動してもらう段階、そこまで辿りつくには、さらに相当の時間が要る、つまり距離は遠いと、私は思うのです。

実際、何かの競争入札の場で、各社ごとの提案(プレゼン)がなされ、一定レベル以上の高い評価を受けたとします。そのことだけで採用されるかというと、必ずしもそうとは限りません。

要するに、理解してもらうことと、納得(腹落ち)から具体的に行動に移してもらうまでの、その距離は遠い、と考えざるを得ないのです。

一方で、なぜ私たちは、誰かに何かを説明したとして、すぐそれを行動に移してくれることを期待するのでしょう? 目上からの指示・命令のような場合であればあるほど迅速な行動と結果を要求し、思ったように動かない部下に対して強く叱責したり、ときに非難したりする困った上司すら未だに散見されます。どうしてそのようになってしまうのでしょうか。

私は、『理解と納得までは遠い』ということが忘れられている、或いは気づいているけれどもそれを見ないようにしているのだと思います。

自分の思い通りになるか・ならないかが優先され、相手の気持ちや背後にある事情などを、仕事だという名目のもとで二の次にしてしまう。そのような、自分の成績や責任に目が向き、部下たちが抱えている様々な事情や、人によって異なる理解・納得・行動のスピードを尊重する姿勢に欠けている…、そんなリーダーに対して、果たして人は付いていくでしょうか?

たとえば、理解を得るということのためにも周到な準備が要ります。聴いてくれる人、納得してもらいたいと思う人の立ち位置に立ち、どのような説明であれば受け容れられるか、よりスムーズに理解から共感へ、共感から納得へと繋げてくれるだろうかと考え、内容はもとより、話し方や質問の受け止め方、皆が前向きになれる対話の進め方、等を準備していくのです。

根本原理は一つ、相手をどこまで思いやれるかどうか、ということだと思います。

では、相手を思いやることができる力とは、”スキル”なのでしょうか?私はそうではないと思います。スキルを身に着けていく土台=基盤のようなもの、”心根・信念”のように説明されるものだと思います。

「あれだけ話しておいたのにどうしてやっていないのだ!?」と言い放つ人材はリーダーの適材ではありません。少なくとも人の上にたつ●●長のような役目からは外れるべきです。

世の中の多くの仕事は、人と人とが役割を分担し、強みを出し合い弱みを補完しあって、それぞれが心を込めて成し遂げた仕事を、社会のために一つに編み上げていくようなものであるはずです。物事が理解できただけでは動きません。目指す状態や目的・目標に共感し、自らの強みが活きる、自分なりの貢献方法が具体的にイメージできた瞬間、そこで”腹落ち”が生まれ、行動へと繋がっていくのです。

真のリーダーとは、その一連のプロセスに対し当たり前のように寄り添うことができる人材のことだと思います。一人ひとりのメンバーに対する思いやりの心、皆の力を一つに束ねて社会が求めている価値をいち早く実現していく志。胸に抱いたその志を熱く語る姿に、人々は突き動かされるように、理解から共感、納得から行動を具現化していくのではないでしょうか。

『理解から行動までは遠い』のです。でも人間の多くは、共感できることのために自らの人生をかけて参画したいと思っています。まさしく、私が知る真のリーダーたちは、そのような世の成り立ちを良く分っていて、状況に合わせた行動が選択できる人々であるように思えてなりません。

『政治山』コラムに人材マネジメント部会紹介記事が掲載されました

『政治山』の早稲田大学マニフェスト研究所の連載コラムに、人材マネジメント部会紹介記事が掲載されました。記事は下記からご覧ください。

「人材マネジメントで『地方政府』を実現する ~早稲田大学マニフェスト研究所人材マネジメント部会の活動から~」

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『自分の可能性を拡げる「自信」の持ち方』

随分とアップデートに時間を要してしまいました。私の仕事の関係上、1年のうちで何回か多忙な時があり、この時期はまさにそうなのです。少し落ち着きを取り戻しましたので、過日より思うところを記してみようと思います。

今日のテーマは「自信の持ち方」ということです。

自分にはまだ経験がたりない、能力が追い付いていない、故に自信などとうてい持つことはできない、というように考える方は少なくないように思います。かくいう私自身も社会人として日の浅い20代のころはそのように考えていたように思います。

様々な経験を経た今、より一層社会で活躍したいと願っておられる若手・中堅の方々に対して申し上げたいのは、「まず自信を持つようにしませんか?」ということです。

なぜそうなのでしょうか。誰に対してもその言葉が当てはまると考えてのことでしょうか。

端的に申せば、順序を逆にしてみましょう、という提案なのです。

十分な能力が身に付いたら自信を持とう、長い経験を積むことができたら自信を持とう…等、多くの人々がそのように考えて(考え過ぎて)おられると思うのです。

どこまでの能力を身につければ自信がつくのか、どの程度の経験であれば大手をふって自信があるといえるのか・・・、そのような基準など、人生の中で実は誰も示してはくれません。

一流のビジネススクールでMBA(経営学修士号)でも取得したら自信を持つことができるのでしょうか。私はそうは思いません。私自身もMBA自体は取得しましたが、クラスメートの顔ぶれを思い返すに、現実社会でそのまま通用するような修了生は多くなかったと断言できます。当然一定のスキルは身につくとしても、人としての”深み”に欠けると申しますか、そもそもの”志”のようなものが感じられずに、ただ頭でっかちの人材を輩出している傾向が多くありました(その部分の育成をスキップしたとしても、MBAは取得できてしまうようなのです)。

”志”から始まる”深み”は、できるかどうかわからない中で自らの内から湧いてくる、未来への希望のようなものが本質なのだと思います。経験が浅くとも、若すぎると感じる年代であったとしても、”志”は持つことができます。要するに、”志”を持とうとするか否か、心の中から湧いてくる、未来への希望に焦点を当てようとするか否か、が重要なのだと思うのです。知識やスキルに偏重した教育の場ではそこに真摯な問いかけが不足してしまうのだと私は思います。

MBAプログラムという”非日常空間”の、対極にあるともいえる”現場経験”を想像してみます。

例えばですが、10年という期間、経験を積むことができたら自信を持ってよいのでしょうか。私は断言できないと思います。なぜなら、経験というものはあくまでも自分の中に蓄積されるものであって、客観的に測定できるものでなく、そこから何を学んだのかという要素によって、重み・深みも大きく変化するからです。

確実に「自信」に繋がる経験があるとすれば、それはお客様からの評価であると思います。「あなたはこれまで難しい場面で一生懸命私たちのために取り組んでくれた。それは大きな安心を与えてくれるものだった。あなたのこれまでの努力と貢献に心から感謝したい…」そのような評価をお客様からいただけたとするなら、それは確かに「自信」を深めるに値することだと思います。

自信を深めるに値する経験や能力・・・それはすべて客観的な評価が介在するものです。MBAプログラムを修了せずとも、日々の実践の中で、お客様や取引先など、社内・組織内とは違う基準で自分の仕事の質を評価いただける方々が居られたとして、高評価が続いたとすればそれは「自信」を深める出来事以外の何物でもありません。

では、そのような経験を経なければ「自信」は持てない・深められないということでしょうか。私はそれも少し違うように思います。

自分に自信を持つ、ということのスタートラインには、自らの可能性に目を向けていくこと、きっと自分はやっていける・頑張れる、とポジティブに信じることがあるはず、と思うのです。

自分の可能性を信じることができない人は、いつまで経っても自分自身がはじめから持ちあわせている良さ(持ち味)を見つけ出すことが困難です。周囲から見れば素晴らしいと思える事でも、自らはとてもそうは思えず、むしろ未熟な(と思える)側面ばかりに目が向いてしまうのです。

それが自分自身の中だけに留まるならそれも良いでしょう。問題なのはそのような人材にはいつまでも笑顔が浮かぶことが無い、ということなのです。常に不足を感じるがゆえに、自分に満足することがない、自分の中にたくさんある良さ(持ち味)を見過ごすが故に、表情が常に厳しいままなのです。”目の奥”に光がなく、自然な笑顔・本当の笑顔がそもそも表れないのです。

果たしてそのような人のまわりに、人が集まってくることがあるのでしょうか。

自分が決めた基準を優先するがあまり、自分自身にも厳しくなり、笑顔に無縁なままで居ることを憶えた人材。そんな人の傍に居たい・一緒に働きたい、と思う人が世の中にどれだけ居るでしょうか。息がつまるところに居たいと思う人など、居ないのではないでしょうか?

自分がもともと持ちあわせている可能性を信じましょう。そこから始めましょう。なぜなら、自分には他の人にない良いところがあるからです。他の人材が得意でない何かを持っているからです。

他の人の得意なところを認め、敬い、学びつつ、そのような人とのチームワークの中で自分が持つ持ち味を上手く活かしていくことができるなら、それはまさしく最高ですよね!

そうやって人生は成り立っているのだと私は思います。誰か一人の力で問題が解決し、未来が創られていくのではありません。各自が自分の持ち味を出し合って助け合い、その連携協業の中で大きな何かを成し遂げていくのです。眉間にしわを寄せ、自己満足に浸る余裕があるのであれば、外に出て、人と触れ合い、自分が貢献できることをしましょう。自分より優れたところを持つ人を思いきり褒めてあげましょう。そんな瞬間から何が生まれ始めるのではないかと、私は思います。

そして、結局のところ気づくのですね。自分の「自信」などというものは、そのような日々の中でいつの間にか身に付き、深められていくものなのだ!ということに…。

『経営幹部合宿の場でいつも考えること』

私の仕事の1つに、大きな会社の幹部層を集めて、合宿形式で語り合う場に呼ばれる、ということがあります。いわゆる役員・部長合宿のファシリテータを頼まれる、ということなのですが、20年前ぐらいであればファシリテーションに徹すれば良かったところを、余裕がなくなっている今では、戦略議論が詰まった場合はコンサルタントとして、悩み深き参加者に対してはカウンセラーとして、方向性が定まり、後押しが求められる段階に入ったらエグゼクティブコーチとして様々な役割を演じることが求められます。

そのような活動をしていて考えさせられることがあり、ここではそれを少し記したいと思います。

大手企業の役員や部長という幹部とはどのような人々なのでしょうか。一般の社員層からすると、高い給料をもらい、秘書がついていろいろなことを指示命令できる、夢のような立場だなと思う方も少なくないかもしれません。いや、会議会議の連続で、自分の自由になる時間などほとんどないのではないか、という側面が気になる方もおられるでしょう。そのいずれも間違っていない、確かにそのような側面はあるでしょうね。

私が記したいのは…、「幹部は皆、自分自身のことが良くわからなくなっている」ということです。

もちろん人によって”わからなさ”の度合いは違います。少しわからなくなっている人もいれば、大混乱している人も居られます。しかし、おしなべて全員なんらかの形で自分自身を見失っている人だと私には思えるのですね。

では、どのようにわからなくなっている・見失っているのでしょうか。

① 全体を考えられると思ったのに、部分のことばかり責任を押し付けられる

あくまで仕方がないのですが、部長であっても役員であっても、”担当”領域や機能があります。それがないのは社長だけ。経営層といっても結局役割を分担している一人ですから、全体を担う感覚が薄れるのは仕方がないこと、ともいえます。しかし、それに拍車をかけるのが、世代間・上下意識の問題です。

つまり、社長や副社長からすれば今の執行役員や部長クラスは自分が課長だったころの平社員、部長時代の係長です。ということは、任せたことをどれだけきちんとやってくれるのか、が肌感覚として残っており、社長がそうであれば、部下としての役員・部長も、昔の感覚を思い出してそのように立ち居ふるまってしまうことになります。いつまでたっても全体最適思考など持ち得るわけがないですね。

そのわりに、後継者を誰にするかを考えている瞬間の社長の目線からすると、急にそれらの役員・部長の姿が小さく思え、「皆もっと全体のことを考えてくれ!」と苦言を口にしたくなる…? それは社長ご自身にまず問題があるのでは…?

② 自分の自由になることが増えると思っていたら、全くそうではなかった

スケジュールを自分自身で決められなくなることにはほぼ全員がびっくりされるようです。自分が参加したことのある会議だけでなく、社内にはこんなにも様々な会議体があるのか、と驚くことはまだ序の口で、その事前交渉の場としてのミーティングや面談の要請は矢継ぎ早に入ってきて、どんどん考える時間や物事を書き記す時間がなくなってくるという実態に目が回る新任役員・部長は思いのほか多いと思われます。

部下からすると意見や決裁を求めたいと思っても役員や部長が席にいないことがほとんどで、スピーディな仕事を阻害する要因にしか見えなくなってくるという弊害もあります。よしんば、多忙な時間の合間を縫って本人を捕まえられたとしても、次の会議のことを心配して意識ここにあらず・実のある助言などとても貰えない、という経験は多くのスタッフが経験されていることでしょう。

組織として観た場合、このような情景が当たり前になっていること自体が大変な問題です。

③ 全社経営に近づけない一方で、現場からも遠くなり、何も見えなくなった

現場の動きは早く、少し離れていると自分の出身母体のこともよくわからなくなります。むしろわかるはずと思っていたことがわからなくなるショックの方が大きく、もはや自分は別の風景を観ながら過ごさなければならないのだという覚悟を迫られ、愕然とする方が居られるようです。

担当者から課長になったあたりでそのような覚悟に対する決着をつけ、プレーヤーであった自分を懐かしむことに時間をかけていればそのようなことは無いのでしょうが、多くの場合、役員や部長までかけあがってきたこれまでの方々の経歴からすれば、スーパープレーヤーとして名をはせ、誰よりも貢献してきた業績の高さ=プレーヤーとしての勲章だけが誇りであった方も多いため、いよいよ(現場から遠くなってしまったことを発端とする)”やり場のないむなしさ”は広がってしまうのだろうと思います。

役員合宿やコーチングなどの場でご自身のことがよくわからなくなっている・混乱している、という姿を多くみるにつけ、この経済社会が持ち合わせている目に見えない虚無感、というものを私は感じてしまいます。誰もが一生懸命であろうとしているのに、良かれと思って頑張っているのに、どうしてむなしさが生まれてしまうのだろうか…、私自身は微力な存在ですけれど、何とかしたいと思ってしまいます。

この場の結論として記しますが、私は次のようなことを企業経営者・幹部層に対して粘り強く伝え、訴えていきたいと思います。

「課長から部長、部長から役員の節目で、それまでを振り返り、しっかりとスイッチを切り替えて、新しい役割と責任に向けて覚悟を定めていきましょう。担当を持っているから、といってそれに拘りすぎるのではなく、まず社長の目線に立つ努力をし、そこから全体を俯瞰してみて、課題を認識してから自分自身の担当のことを考えましょう。現場を変えなければ組織は変わりませんが、もはや役員・部長としての自分は現場のこと・そこで起こっている現実のことを深くはわかりません。それは仕方がないことです。それはそれで覚悟をし、何を目指したいかを示し、対話で分り合ったあとは、そこに到達する具体的な方策については部下に任せていきましょう。結果の責任は自分がとる、というところだけは明確にし、自分は部下が見切れていない少し先のこと、横断的なこと、に気を配り、部下の考えや動きを助けることに徹していくようにしましょう。それが一番です。それが物事を一番うまく進めていって成果を生める最善最良の道です。同時に、そうすることでご自身の心の中に余裕のようなものが生まれ、社長とも、部下とも、同僚とも、笑顔で接していくことができるようになるでしょう!」